歴史には、そこを過ぎると、もはや引き返すことのできない通過点のような局面があるのかもしれない。
最後にキエフを訪れたのは、新型コロナウイルス禍前の2019年9月である。
2014年の政変(ウクライナ国民は“ユーロマイダン革命”と呼んでいる)から5年以上が過ぎたこの街で、多くの市民はロシアにはっきり背を向けて、西のEUの方を向いていた。
東へ600キロほど離れたロシア国境に近いドンバスでは、ウクライナ軍と親ロシア派武装勢力の衝突がつづいてはいたが(私の滞在中も毎日、数人のウクライナ軍兵士が犠牲になり、累計の死者数はその時点ですでに1万人を超えていた)、それでも人々はビザなし入国を利用して、ヨーロッパへ自由に出入りできることを心底楽しんでいるようだった(ウクライナとEUは、2017年5月にビザ免除協定を締結)。
「覆水、盆に返らず」という。プーチン大統領は、同じスラブの兄弟国であるウクライナの人々が久しくロシアへ寄せてきた親和の情を失わせた。ウクライナは東西の対立を克服し、ひとつの国民国家を形成しつつあった。これが実感である。
“ユーロマイダン革命”が転機だったのだろう。ウクライナ東部で親ロシア派がその一部を支配するふたつの州、ドネツクとルガンスクの人口は合わせてざっと650万から660万。そのうち、ロシア語を母国語とするロシア系住民はおよそ250万。
2019年7月以来、ロシア政府は彼らに対してロシア国籍を付与する政策をすすめてきたが、実際にこれに応じたのは、2021年末時点で全体の3分の1にも満たないわずか70万人足らず。大多数のロシア系住民は、ウクライナ国籍のままでいることを選んだ。
ロシアはすでにウクライナそのものを失いつつあった。ウラジーミル・プーチンは手遅れになるまえに、専制的権力者としての自らの政治的余命とその限りある時間を考慮して、この度のウクライナ侵攻を決意したのではなかったか。
ところで3年前のその夜、私は、倉井高志ウクライナ駐在日本大使(当時)のご好意により、旧友ユシチェンコ元大統領を大使公邸に招いて20年ぶりの再会を果たした。
かつてウクライナ国立銀行総裁として通貨改革を成功させ、首相をへて、2004年12月の“オレンジ革命”によって第3代大統領に就任した。彼が国立銀行総裁だった1990年代後半の一時期、私は専門調査員として日本大使館に勤めていた。毎月のように総裁室を訪れては、好物だった西ウクライナ産のブドウを摘まみながら、またときにコニャックを舐めながら過ごした時間は懐かしい記憶である。
往時、流暢な英語をあやつるアシスタントが通訳として彼の傍にいた。その後、ふたりはロマンスにおちいって再婚する。彼女が実は、アメリカ国務省から送り込まれた移民2世だったことは、後年モスクワの友人から知らされた。ウクライナの歩みを知るためのひとつのエピソードである。
◇ ◇
ロシアのウクライナ侵攻の行方は流動的です。そんななか、1990年代のウクライナ滞在中はユシチェンコ中銀総裁(後に大統領)と深い友人関係を築くほどにウクライナを知り、その後はロシアトヨタ社長などでのモスクワ勤務で、ロシアにも造詣が深い、西谷公明N&Rアソシエイツ代表(エコノミスト)に、日本人にはわかりにくいウクライナ問題の深層を連載していただきます。
プーチンは「親ロシア感情」喪失に気づいていた |
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【ロシア・ウクライナ戦争】脱ロシアに先手を打ったつもりでは 転機は2014年
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(ワールド)
ユシチェンコ元大統領(右)とリバチューク元補佐官=提供・西谷氏
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西谷 公明(エコノミスト 元トヨタロシア社長)
1953年生、長銀総研を経て1996年在ウクライナ日本大使館専門調査員。2004ー09年トヨタロシア社長。2018年N&Rアソシエイツ設立し、代表。著書に『ユーラシア・ダイナミズム』『ロシアトヨタ戦記』など。岩波書店の月刊世界の臨時増刊「ウクライナ侵略戦争」で「続・誰にウクライナが救えるか」(2022年4月14日刊)を執筆。
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