1月8日の韓国ソウル中央地裁の慰安婦判決に関連して、日本政府が国際司法裁判所に訴えることを検討中と報じられている。実は参考になる国際司法裁判所の判決があり、判決文をインターネットで読むことができる。
イタリア人がイタリアの裁判所で起こした裁判で、ドイツ政府が強制労働をさせたイタリア人に賠償を支払うべきと判決が出たので、ドイツは国際司法裁判所で争った。2012年の判決は、ドイツの主張を認め、イタリアの裁判所の判決をいわば門前払いして無効とした。主権国家であるドイツは、イタリアの司法管轄権には服さないし、「イタリアは、適切な立法、またはイタリアが選ぶ適切な方法により、・・・イタリアの裁判所その他の司法当局の決定を無効とさせるべき」というものであった。
裁判の経緯をたどってみよう。
▼第1幕:イタリア人がイタリアの裁判所でドイツからの補償を勝ち取った
事の発端は、1998年にイタリア人ルジオ・フェリーニ氏がドイツに補償を求めて起こした裁判である。フェリーニ氏は1944年8月にドイツ軍に逮捕されドイツに連れていかれてドイツの敗戦まで働かされていた。(イタリアはドイツの同盟国であったが、1943年9月にムッソリーニが権力の座から引きずり降ろされた後、連合国側に降伏し、翌月ドイツに宣戦布告した。そのためドイツ軍はイタリアを占領した。)
イタリアでの裁判で、アレッツォ裁判所(2000年)、フィレンツェ控訴裁判所(2001年)とも、訴えを却下した。理由は、「主権国家であるドイツは司法管轄権の免除により保護される」というものであった。
しかしイタリア最高裁は、犯された犯罪が国際犯罪である場合には、ドイツに補償を求める裁判を行う管轄権をイタリアの裁判所は有するとの判決を下した(2004年)。
この訴えはアレッツォ裁判所に差し戻され、イタリア裁判所が司法管轄権を持つという前提で裁判が行われたが、今度は賠償を求めるにはタイミングが遅すぎるとの判決であった(2007年)。しかしフィレンツェ控訴裁判所は、ドイツに対して損害賠償と裁判費用の支払いを命じた(2011年)。フィレンツェ控訴裁判所は、司法管轄権の免除は絶対的なものではなく、国際法違反の犯罪である場合には国家は免除を主張できないとした。
2004年のイタリア最高裁の判決以降、同種の訴えがイタリア国内で起こされた。
▼第2幕 ドイツが国際司法裁判所に訴えた
2008年12月、ドイツはイタリアが「国際法の下での義務への違反」をしたと国際司法裁判所に訴えた。具体的には、イタリアはその司法の運用により「ドイツが国際法の下で享受している司法管轄権の免除を尊重することを怠った」という内容である。
裁判はドイツとイタリアとの間で争われたが、ギリシャも参加した。ギリシャも戦争中、ドイツ軍により被害を受け、ギリシャ人がドイツに対する訴えをギリシャ国内で起こして勝ち、イタリア国内のドイツ国の資産を要求していたからである。
国際司法裁判所の判決は2012年2月3日に下された。この判決のタイトルは「国家の司法管轄権の免除(Jurisdictional Immunities of the State)」である。(英文で61ページ)
この文書には、歴史的な経緯も背景として書かれており、戦後処理関連の諸文書の簡単なサマリーも掲載されている。(連合国とイタリアとの平和条約(1947)、ドイツ連邦共和国の国家社会主義の迫害犠牲者への賠償法(1953)、ドイツとイタリアの条約(1961年に2本締結)、ドイツの「記憶・責任・未来」財団設立法(2000))
文書では、イタリア人被害者が過去どれだけの救済を得られたかという点について、ドイツの主張(1961年の2本の条約と2000年の法律に基づく支払い措置)とイタリアの主張(多くの被害者が補償を受け取っていない)の双方が記述されており、国際司法裁判所はドイツの過去の努力を(一定程度)認めたりもしている。
判決は次の5項目から成り、ドイツは4項目で勝利した。ほぼ完全勝利と言える。韓国での慰安婦判決を日本が国際司法裁判所に提訴した場合、以下の「ドイツ政府はイタリアの裁判では裁かれない」という、いわゆる「国家主権免除原則」が貫徹している判例として参照される可能性が高い。つまり、ドイツ政府の提訴でのイタリアへの対応と同様に、韓国の主張も「門前払い」となる可能性が高いと言えるだろう。
判決の主要な5項目は以下の通りだ。
(1)ドイツ国はイタリアの司法で裁かれない(12対3)
「イタリアは、ドイツ帝国が1943年から1945年に犯した国際人道法違反に基づいて市民がドイツに対して起こした訴えを認めたことにより、ドイツが国際法の下で享受する免除を尊重する義務に違反した。」
(2)イタリア国内のドイツ国の資産を差し押さえなどしてはいけない(14対1)
「イタリアは、ヴィラ・ヴィゴニに対して制約措置をとったことにより、ドイツが国際法の下で享受する免除を尊重する義務に違反した。」
(ヴィラ・ヴィゴニとは、ドイツがイタリア国内コモ湖近くに所有する財産である。ギリシャ人は、ギリシャでの裁判でドイツに勝訴したことを根拠に。このドイツの財産への請求をイタリア国内で行った。イタリア国内では、国際司法裁判所の裁判結果がでるまで、この請求の実現は停止されていた。)
(3)ギリシャの裁判所の決定をイタリア国内で有効とは認められない(14対1)
「イタリアは、ドイツ帝国がギリシャで犯した国際人道法違反に基づいてギリシャの裁判所の決定がイタリアで有効だと宣言したことにより、ドイツが国際法の下で享受する免除を尊重する義務に違反した。」
(ギリシャ人はギリシャでの裁判でドイツに勝訴したので、イタリアで執行しようとし、それは可能との判断をイタリアの裁判所が下していた。)
(4)イタリアは裁判所の決定を無効とする措置をとるべきだ(14対1)
「イタリアは、適切な立法、またはイタリアが選ぶ適切な方法により、ドイツが国際法の下で享受する免除を犯しているイタリアの裁判所その他の司法当局の決定を無効とさせるべきである。」
(5)将来のイタリア司法の行動に対する決定などはしない(全員一致)
「ドイツが行った他の全ての訴えを却下する。」
(ドイツは、イタリアの裁判所が、将来ドイツに対して同様の法的行為を行わないように確実にすることを求めていたが、この訴えは認められなかった。)
なおこの裁判で判断を下す必要は無いということで、判断が下されなかった論点もあった。たとえば国でなくて個人が別の国を相手どって救済を求めることができるかどうか、ドイツはイタリア・イタリア人に対してなおも補償する義務があるかどうかといった点である。
▼欧州では国の最高裁判所判決が国際司法で覆るのは普通
各国がそれぞれ裁判制度を持っており、その間で矛盾する結果がでることは、この世界で起きることである。その場合、各国毎の裁判所より高次の裁判所で事案を検討し、結論を出すという制度が(まだ完全ではないにせよ)実現している。
ヨーロッパではそのやり方に積極的に適合しようとしていると見受けられる。
私はクロアチアで大使をしていた時、クロアチアの最高裁判所長官、憲法裁判所長官とも交際していた。彼らは大変きさくな人たちで、いろいろなことを話してくれた。(クロアチアの最高裁判所長官は、選挙管理委員長も兼任しており、選挙制度について説明をしてもらったこともあった。)
その中で印象的だったのは、ヨーロッパにおいては、各国の裁判結果に不満な市民達が、ヨーロッパ人権裁判所などに訴えて、各国の最高裁判所が下した結果が覆されてしまうことがよく起きるという話であった。
私は、もし自分が最高裁判所長官だったら、せっかく下した判決が覆されるのは不本意ではないかと思ったのだが、ヨーロッパの関係者たちは、それは仕方がないと思っているらしい。
また、ヨーロッパの中では、国際会議などに際して司法関係者どおしで行き来をして、様々な意見交換をしているということであった。このようにして、一種の共通認識を養っているのではないかとも感じた。
クロアチアの最高裁判所長官、憲法裁判所長官からも、是非日本の最高裁判所関係者と交流したいとの希望が出された。
ヨーロッパで最近民主化した東欧諸国やバルト諸国の裁判制度を整え、司法に携わる人たちを育成するために、ドイツなどの先進国がいわば技術支援しているという側面もあるようだ。
翻って、アジアではこのような司法の“国際化”、“国際協力”が、ヨーロッパとはだいぶ状況が異なる。アジア諸国の司法制度も民主化してから比較的まだ間がないところが多いし、民主化していないところもある。ヨーロッパのやり方も参考にすべき点があると思う。
慰安婦判決、日本政府が国際司法裁に提訴か |
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(ワールド)
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井出 敬二(ニュースソクラ コラムニスト)
1957年生まれ。1980年東大経済学部卒、外務省入省。米国国防省語学学校、ハーバード大学ロシア研究センター、モスクワ大学文学部でロシア語、ロシア政治を学ぶ。ロシア国立外交アカデミー修士(国際関係論)。外務本省、モスクワ、北京の日本大使館、OECD代表部勤務。駐クロアチア大使、国際テロ協力・組織犯罪協力担当大使、北極担当大使、国際貿易・経済担当大使(日本政府代表)を歴任。2020年外務省退職。著書に『中国のマスコミとの付き合い方―現役外交官第一線からの報告』(日本僑報社)、『パブリック・ディプロマシー―「世論の時代」の外交戦略』(PHP研究所、共著)、『<中露国境>交渉史~国境紛争はいかに決着したのか?』(作品)、”Emerging Legal Orders inthe Arctic - The Role of Non-Arctic Actors”(Routledge、共著)など。編訳に『極東に生きたテュルク・タタール人―発見された満州のタタール語新聞』(出版に向け準備中)
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