英国が国民投票でEU離脱賛成が僅差で過半数を占めたのが6年前の2016年6月23日、その後、紆余曲折を経て離脱協定に基づきEUを正式に離脱したのが2020年1月31日である。EU離脱後、明らかになったのは英国経済の地盤沈下である。
ブレグジットによってまず、EUとの貿易関係が大きなダメージを被った。EUとのFTA(自由貿易協定)締結で引き続き関税がかからないとはいえ、手続きの煩瑣さなどから対EU貿易は想定以上に減少を続けている。
また英国の家計がインフレ高進も加わって困窮が増したほか、投資環境の不透明さからビジネス投資も縮小した。さらにニューヨークと並ぶ世界の二大金融センターという金融面の圧倒的な地位も揺らぎ始めた。英国にとって少なくとも経済面ではブレグジットはなに一つ恩恵をもたらさなかったと言えよう。
カーニー・イングランド銀行前総裁は、単刀直入に「ブレグジット前の2016年には英国のGDPはドイツの90%の水準であった。それが現在は70%にまで低下した」と指摘している。英ポンドの大幅下落でドル建てのGDPが減少するという算術面のトリックはあるにしても、英国は低成長にあえぎ、G7諸国の中でいまだコロナ前である2019年のGDP水準に到達できないただ一つの国となっている。
カーニー総裁の後任であるベイリー総裁は「ブレグジットは英国の生産性を長期的に大きく引き下げる結果となった」と議会で証言している。予算責任局(OBR)もEUを離脱しなかった場合と比較すると、GDPで4%低い水準、金額にすると毎年1,000億ポンド(約16.5兆円)も少なくなっている、と算出している。この結果、(税収が伸び悩み)財政の持続可能性が乏しくなる、との警告を発している。
先行きについても見通しは暗い。OECDでは2023~24年の2年間における英国経済のパフォーマンスは、大国の中ではロシアの次に成長率が低い「ブービー賞」の位置にあると予測する。もちろん、英国がコロナ感染で多大の損失を被ったこと、エネルギーショックの影響も大きかったことは割り引かなくてはいけないものの、ブレグジットに伴う悪影響は明らかだ。
最も大きな問題は前出の通り、EU諸国との貿易の大幅な減少である。貿易財にとどまらず、サービス分野でも企業間の関係希薄化で英国企業の受注が減退している。財輸出でみると、通関手続き、検査の厳しい食品輸出などが大きく落ち込み、全体の輸出品目数もブレグジット前の7万から現在では4万強に落ち込んでいる。
とりわけ中小企業では、国境検査、検疫などの手続きの負担増大から、大きな被害を受けている。例えばそれまでフランスやイタリアなどから新鮮な野菜やチーズなどを輸入してきた英国の中小販売業者では煩瑣な通関手続きのコストに悩んでいる。
EU加盟時代にはその日のうちに届いていたレタス、白菜などの生鮮野菜やいちご、ブドウなどの果物の輸入に通関手続きなどに数日を要すため、輸入自体を断念する、などの事態に陥ったところも多い。次第にこうした英国の事業者はフランス、イタリア企業などから輸入契約の解除に追い込まれていった。
計数的な把握が難しい分野もあるが、輸出金額は大体、英国がEUに留まっていたと仮定した場合と比較すると、年間15~25%の減少となっているものと推計される。2021年にはコロナ感染からの景気回復でどの国でも貿易ブームを呈していたが、英国はブレグジットの影響でそうしたブームは起こらなかった。
EU向け輸出の減少をアジアや大英連邦諸国との関係緊密化で補おうとテレザ・メイ、ボリス・ジョンソン首相らは「グローバルブリテン」構想を掲げた。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の加入や米国、カナダ、オーストラリアなどともFTA締結に動いた。
しかしこの戦略は、EU向け輸出の減少を補うには至らず、全く絵に描いた餅となった。FTAを締結したオーストラリアとの交易増加はごくわずかでGDPに対する寄与度は+0.08%とないに等しかった。当初、目論んでいた中国との交易拡大はむしろ経済安全保障上の理由からいまはむしろ消極的となっている。
またEU離脱以来、人材の流入が止まってしまったのも大きい。2016年の国民投票で「仕事を奪われるので移民制限が必要」とEU離脱派が叫んだように移民制限がブレグジットの大きな目的にあげられていたので自業自得という面もある。
しかし、東欧の移民が多く働いていたトラック運送業、飲食サービス、介護の現場ではビザ更新が難しくなり一斉に本国に引き揚げたほか、新規流入はほとんど止まってしまっているため、こうした分野では人手不足が深刻となっている。英国が欧米諸国の中でも際立って高い二桁台のインフレ率を続けている背景にはこれらの分野での賃金上昇圧力が一因となっている。
次に打撃の大きい家計部門をみていこう。2016年の国民投票以降、英ポンドは10%以上も減価した。この英ポンドの下落は輸入物価の上昇とインフレをもたらす一方、輸出増大、産業競争力の向上には全く役に立たなかった。この間、実質賃金はインフレの高進等によって、2.9%も下落、家計一世帯当たりでは年額870ポンドの負担増加となった。家計部門は高率のインフレの中で「生計費危機」とも呼ばれる苦境に陥っている。
企業活動にもブレグジットは深刻な影響をもたらした。家計の逼迫以上に大きなマイナスは設備投資に現れている。実質ベースの設備投資は2016年から2019年まではブレグジットに伴う不確実性の増大によって全く増加せず、さらに2020年以降はコロナ感染の影響も加わって減少に転じた。
企業マインドに及ぼしたブレグジットの問題は、将来の不確実性の増大にともなって資本コストの大幅上昇をもたらしたことだ。つまり英国でビジネスを行うにあたっての将来の展望が拓けないのが資本コスト上昇につながっている。
金融面ではシティーの地盤沈下が進んでいる。株式取引では発行市場でロンドンにおける新規上場(IPO)が伸び悩んでいる。流通市場でもパリ証券市場の取引量が急速に拡大してロンドン証券市場を追い上げている。パリ市場の出来高は2兆8,300億ドル、ロンドンが2兆8,900億ドルで僅差に迫っている。英国株が金融機関、製薬、石油等天然資源など不振企業の上場が大きいことなども響いている。
思えば今年の英国はさまざまな出来事があったが、いずれもブレグジットの負の側面が影響している。ジョンソン首相の辞任、わずか49日で辞任を余儀なくされたトラス首相、そのトラス首相の任命が最後の公務となったエリザベス女王の逝去などである。
ジョンソン首相は「パーティーゲート」事件での辞任だがその根底には2019年1月のEU正式離脱後、一向に改善しない経済パフォーマンスに対する国民の不満が噴出したと考えるべきであろう。ジョンソン首相がまだ在任した今年1月の世論調査ではEU離脱後2年経って経済の現状が悪くなったとの回答が52%、良くなったとの回答が15%と過半数が暮らし向きの悪化につながったとの不満を抱えていた。
トラス首相も大幅減税と規制緩和というサッチャーリズムと同じ新自由主義に基づいてブレグジット後、低成長を続ける英国経済を再生したいと願ったのは確かだ。財源を打ち出せず、財政ポジションの悪化を嫌気した国債市場、為替市場などの思わぬ反撃にあって政権瓦解に至ったわけである。
エリザベス女王がスコットランドの教会などで異例の弔意を受けたのは、政治的にはスコットランドの独立運動に水を差すのが狙いではないかとも見られた。元々、スコットランドはEUと密接な経済、貿易関係を築いていて、2016年の国民投票ではEU離脱反対が上回っていた。独立によってEUとの緊密な経済関係を取り戻したいという狙いがある。英国のエスタブリッメントはスコットランドが独立すれば、北アイルランド、ウエールズにも独立運動に火の手が及ぶことを恐れている。
このようにブレグジットは、2016年の国民投票でEU残留を訴える勢力が懸念したとおり、大きな経済的な打撃を被ることとなった。政治的にもEUの一員として加わっていたからこそ、米英の「特別な関係」をもバックにして、その卓越した外交手腕を生かせた面が大きかった。
英国内では今後、次第にEU離脱は短慮であった、との反省機運が高まってこよう。しかし、大陸諸国等が懸命の説得にも応じずEU離脱に踏み切り、一旦、合意したアイルランドにおける貿易協定も反故にしようとした身勝手な英国に憤りを示している。従って、当面、EU復帰の実現性は乏しいと言わざるを得ない。