8月28日持病の悪化のため、突如辞意を表明した安倍晋三首相は、憲法改正への執着、集団的自衛権行使に関する憲法解釈の強引な変更、トランプ米大統領への露骨な機嫌取り、などから対米追従一筋のタカ派のイメージが強いが、実は中国との関係を重視し、次々と行動してきた。
彼は2006年9月26日に最初に首相に就任した直後、10月8日にまず北京に飛び、胡錦涛主席らと会談「戦略的互恵関係」の構築で合意し、日中の経済関係は急速に拡大した。
翌年の9月に彼は病気のため辞職したが、2010年9月尖閣諸島の領域内で海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突、威勢の良いタカ派が少なくなかった民主党政権は従来の友好第一の自民党政権とは異なる強硬な対応をし、尖閣諸島国有地化など刺激的な政策を取ったため、日中関係は一挙に険悪化した。
2012年12月に首相に返り咲いた安倍氏は中国要人との親交が篤い福田康夫元首相らを頼りに日中関係の修復を目指し、2014年11月10日に北京で習近平主席と会談、約20分ながら、約3年ぶりの日中首脳会談となった
その3日前に日中の合意文書がすでに発表されていて「双方は尖閣諸島等東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していることを認識し」戦略的互恵関係の発展を目指すとしていた。
両方の面子が保てるよう、あやふやな言辞だが、問題を棚上げにして日中の和解をはかろうとする外交政策の一致は明白だった。
米国が中国排除を図ったTPP(環太平洋パートナーシップ協定)から離脱することをトランプ大統領が2017年1月に表明したため、安倍氏は中国の「一帯一路」構想への賛同を2017年6月以来何度も表明してきた。2020年に習近平主席を国賓として招待し、日中関係が完全に軌道に戻ったことを内外に示す計画だったが新型コロナウィルスの蔓延で頓挫した。
だがその一方、日本も中国も巡視船を増強、自衛隊は島嶼防衛のために佐世保に陸上自衛隊の「水陸機動団」(日本版海兵隊、人員3000人の計画)を2018年に創設、垂直離着陸可能な小型輸送機「オスプレイ」や水陸両用装甲車、それを運ぶ輸送艦、軽空母、地対艦ミサイルなどの整備をし、日中戦争に備えようとしていることから首尾一貫しない。
国の利害の計算と、領土に関する国民感情は相剋しがちだ。だが、近隣諸国とにこやかに接して紛争を避けつつ、軍事力を示して衝突を抑止しようとするのは安全保障政策の定石と言える。
だがこの政策を進める場合、もし武力衝突が起きればどうなるか、を考えておく必要がある。
もし尖閣諸島で戦闘が起きれば日本の勝算は低い。東シナ海は中国軍にとっては最重要の「台湾正面」で、そこを担当する東部戦区には中国空軍の戦闘機・攻撃機約1700機(うち旧式のJ7、J8Ⅱ 約600機)の30%程度、約500機が配備されていると考えられる。台湾空軍の戦闘機・攻撃機は400機余りだからそれと同等だ。
中国の戦闘機・攻撃機の約65%は、ロシア製Su27系列やその国産型J11、国内開発のJ10などの「第4世代機」で、米国のF15、F16にほぼ匹敵する。尖閣海域に出てこれる中国の第4世代戦闘機・攻撃機は300機程と推定できる。
一方、航空自衛隊は那覇基地にF15 約40機が配備され、九州の基地から空中給油で約20機は投入できそうだ。数的には日本側は5対1の劣勢となる。
1980年代の中国軍は戦闘機・攻撃機約4500機を有したが、財政難による予備部品の不足などから、飛行訓練は不十分だった。今日では機数はかつての約3分の1に減ったが、財政に余裕があるため、戦闘機パイロットの飛行訓練は年間約150時間とされ、航空自衛隊と同等だ。
大型レーダーを搭載した空中早期警戒機の能力や電波妨害などの電子戦技術では日本側が優位だろうが、5対1の数的劣勢をどこまで補えるか疑問だ。
航空優勢(制空権)が中国側にあれば、尖閣海域に向かう輸送機やオスプレイ、ヘリコプター、輸送機などは容易な標的となる。第2次世界大戦中、米軍が上陸した島々を奪回するため、逆上陸をしようとした日本軍部隊と同様、水陸機動団は海上で全滅する結果になりかねない。
もし、敵の隙を巧みに突いて逆上陸に成功しても補給、増援が遮断されれば、餓死か降伏することになる。
仮に尖閣諸島の争奪戦で日本側が勝利を収めたとしても、それが尖閣戦争で終わる可能性は低い。真珠湾攻撃に日本が成功して日米戦争が始まったのと同様、尖閣の戦闘は日中戦争の第一幕にすぎない。中国は全力を挙げて反撃に乗り出し、日本側の策源地である沖縄の港湾、飛行場などを弾道ミサイル、巡航ミサイルで攻撃し、対艦ミサイル基地となる奄美大島、宮古島、石垣島なども標的とするだろう。
もし米軍が参戦して米中戦争になれば横須賀や、佐世保の港、嘉手納、岩国、三沢などの米軍飛行場も攻撃の対象となり、東京などへ弾道ミサイル攻撃も十分起こりうる。
米国は近年「尖閣諸島には日米安保条約が適用される」と言うようになった。だがこれは尖閣諸島の「赤尾嶼」、「黄尾嶼」が安保条約に基づく地位協定で米軍への提供施設(射爆撃場)となっているから当然だ。この小島の名は中国風なので日本ではこれらを「大正島」「久場島」と改称したが、地位協定では元のままだ。
2015年4月の「日米防衛協力のための指針」(ガイドラインズ)では「必要が生じた場合、自衛隊は島嶼を奪回するための作戦を実施する」「米軍は自衛隊の作戦を支援し及び補完するための作戦を実施する」と定め、米軍は前線での戦闘に参加しなくともよいようになっている。
当時の米国オバマ政権は台湾の親中派、馬英久政権を支持し、米中友好関係を保っていたから、彼が記者会見で「あの岩」と呼んでいた無人島の争いに加わることは避けようとする姿勢がガイドラインに表れていた。
ところが、トランプ氏は地球温暖化防止、イラン核開発規制、TPPなど国際協調を敵視し、「アメリカ・ファースト」を唱えて米国を孤立させようとする突飛な大統領で、「米国の凋落は中国のせいだ」として大衆の人気獲得を狙ってきた。
中国のGDPは昨年13.4兆ドルで米国の20.6兆ドルの65%に達し、間もなく米国を抜きそうだ。工業生産では中国がほとんどの品目で米国を上回り、例えば2018年の自動車生産は中国が約2800万台、米国は1100万台と大差が付いている。電子技術でも中国が米国をしのぐ局面があらわれつつあるなど、米国人が中国に対し嫉妬と脅威を感じる要因は十分ある。
1980年代には日本が同様なバッシングの矢面に立ち、群衆が日本国旗を焼いたり、日本車を叩き壊すような騒ぎが頻発した。バンパーに“Nuke Japan″(日本を核攻撃)のステッカーを張った車が走り回っていたし、“Coming war with Japan″(迫り来る日本との戦争)といった本がベストセラーの一角を占めていた。
日本はそれに反撃せず米国に譲歩を続け、90年代に入るとバブル崩壊で経済成長も停滞したから、米国人は日本に対して嫉妬に代えて優越感を再び抱くことになった。
今回の米中の対立は経済問題だけでなく、軍事的要素もあるから厄介だ。中国が南シナ海に人工島を建設、周辺の海域を領海化しようとすることには国際法上の無理がある。人工島は領海の基点にはならないのだ。
ベトナム、フィリピンなどと友好関係を保ってきた中国が、それらの周辺国の前面に人工島を築いたのは弾道ミサイル原潜の待機海域を確保するためと考えられる。かつては中国の潜水艦の根拠地は黄海の奥の遼東湾が主だった。だが、黄海北部は平均水深が25メートルと浅く、全長13mもの弾道ミサイルをタテに搭載する弾道ミサイル原潜は、出港後長時間浮上して浅い海を通過する必要が生じ、空から丸見えになってしまう。
このため、中国海軍は南の海南島にトンネル状の埠頭を設けた潜水艦基地を建設し、出港後、間もなく深い海で潜航できるようにした。中国は現在4隻ある「晋」型弾道ミサイル原潜のうち、少なくとも1隻は港外に出し、必要があれば直ちに発射できるよう待機させたい。
一方、米海軍は嘉手納などから出る対潜水艦哨戒機や、グアムの原潜4隻、横須賀から出る駆逐艦などで出港する中国のミサイル潜水艦を追尾し、いざとなれば最初にそれを処理できる準備をしている。
ロシアは米海軍が入りにくいオホーツク海北部とスカンジナビア半島の東の白海を待機海面にしていたが、中国沿岸にはそれに匹敵するような湾がないから人工島を並べて守るようにした、と考えられる。
米国はこれを「海洋の自由」の原則に反するとして非難するが、伝統的には海岸から3海里(5.5㎞)だった領海を第2次世界大戦後に一方的に12海里と宣言し、その外側に12海里の「接続地域」を設定、海岸から200海里(370キロ)の広大な公海を「漁業専管水域」として他国の漁船の操業を禁じ、米国からメキシコ湾内の海底に伸びている大陸棚の油田の開発権を独占するなど、海洋の自由を率先して覆えしてきたのは米国だった。
これに対し、日本、英国、ノルウェーなどの海洋国は領海3海里の原則を保持しようとつとめた。だが、米国は世界最大の海軍を持って海洋を支配し、また水産、海運の力が弱い沿岸諸国は先進海洋国の船舶が近海で行動することを好まない。
沿岸国の数は海洋国よりはるかに多いから日本等の抵抗は空しく、国連海洋法条約などで沿岸諸国が広大な海を管轄する権利を持つことになった。
公海の分割支配を先導した米国が中国近海では「海洋の自由」を叫ぶのは皮肉だ。
米海軍の艦艇、哨戒機は長年南シナ海で行動し、対潜水艦作戦に必要な海洋調査などの情報収集を行い、それを妨害しようとする中国艦船、航空機との空中衝突(2001年、海南島沖)や異常接近などの軋轢が続いてきた。
トランプ政権は国民の反中感情を煽り、米海軍の示威行動も活発となった。特に空母セオドア・ルーズヴェルトで今年3月千人を超えるコロナウィルㇲ感染者が出て行動不能となったため、その弱みを見せまいとして7月には空母2隻(ドナルドレーガンとニミッツ)と水上艦4隻を南シナ海に入れ、戦力を誇示した。
米海軍は冷戦時代にも、ウラジオストック沖などソ連沿岸で大演習を行い威嚇したが、脅された国が委縮したり温和になることはまれで、逆威嚇で応じることになりがちだ。
中国は8月26日に南シナ海で演習を行い、浙江省から弾道ミサイル「東風21Ⅾ」(射程1800キロ)、内陸の青海省から「東風26B」(射程4000キロ)を発射した。東風21Dは精密誘導装置を持ち、艦船攻撃用の弾道ミサイルと言われる。
だが、はるか外洋を航行する艦船の位置、針路などはつかみにくいし、商船との識別も困難だから、対艦弾道ミサイルの効果には疑問があるが、中国沿岸近くに来る艦船に対しては有効だろう。
米中が海上で威嚇競争を続ければ衝突などの事故になりやすい。相手を挑発し戦端を開く謀略行動も起きかねない。1964年8月に米駆逐艦マドックスは南ベトナム特殊部隊を潜入させるためトンキン湾の北ベトナム領海に入り、向かって来た北ベトナム魚雷艇を撃沈、これが契機となって米国は1973年に撤退するまで9年間ベトナムで戦って敗退する結果となった。
またイラン・イラク戦争中の1988年7月には米巡洋艦ヴィンセンスがペルシャ湾のイラン領海内でイランの巡視艇を追い回していたところ、近くのバンダルアバス空港を離陸したイラン航空機をイラン戦闘機と誤認し、対空ミサイルで撃沈、290人を死亡させる事件も起きた。
米国では躍進著しい中国に対する反感が全般的に広がっているから、もしトランプ氏が再選されなくても対立激化に向かうことも十分考えられる。トンキン湾、ペルシャ湾で起きたような事件が再発すれば、米中戦争に発展する可能性は、高くはないとしても完全には否定できない。
仮に米中戦争となれば原子力空母11隻、原潜67隻を有する米国海軍は圧倒的に優勢で、中国海軍の対潜水艦戦力は乏しいから、海上封鎖による輸出入停止は行えるし、航空機、巡航ミサイルなどによる陸上への攻撃も行える。
だが、渤海湾岸に上陸して約180キロ内陸の北京を制圧することは極めて困難だ。仮に首都を陥落させても、旧日本軍に北京、南京を占領された蒋介石が重慶に籠って戦いを続けたような長期の大戦争になりそうだ。
中国は米国に届くICBMを98発保有し、内陸に分散配備しているから、米国が先制攻撃をしてもすべて破壊することは困難で、核戦争になれば米国の大都市などの被害は致命的となり、双方は共倒れになるだろう。
中国は食糧の自給率はほぼ100%で大豆だけは輸入している。石油、石炭などのエネルギー生産も石油換算で23.6億トンで、世界2位の米国の19.1億トンもしのいでいるから封鎖に耐えられる。
中国軍の総兵力は203万人(うち陸軍97万人)で、米軍の総兵力は138万人(うち陸軍48万人)だ。中国陸軍の装備も近年相当近代化が進んでいるから、米軍がイラクのように全土を占領する事は不可能だ。
中国のGDPは額面では前述の通り米国の約65%だが、IMF(国際通貨基金)が物価を勘案した「購買力平価」では中国のGDPは23.3兆ドル、米国は21.4兆ドルで、すでに米国を上回っている。
中国のGDPは2030年ごろに米国を追い越す、と言われてきたが、新型コロナウィルス蔓延により、米国では18万人の死者が出て、GDPは今年4-6月期で32.9%減となった。
これに対し中国は死者4600人余りで同じ期間にGDPは3.2%増加している。この傾向は今後もしばらく続くから、額面のGDPでも中国が米国をしのぐのは2030年よりも早いかと思われる。
かつて米国の仮想敵国だったソ連のGDPは冷戦後に計算すると米国の4分の1程度だった。
日本の財務省が今年5月に発表した各国の対外純資産の統計では日本の純資産は364兆円、ドイツが299兆円、中国が231兆円、香港が170兆円であるのに対し、米国はマイナス1199兆円で、断然世界一の債務国となっている。
米国の財政赤字は昨年度は9844億ドルに急増したが、今年はコロナ対策で3兆7000億ドルにまで膨張する、と米議会予算局は予測している。
この経済、財政状況では、米国が中国を相手に戦争に乗り出す事は論外の無謀な行動で、日本の無人島のために自国の存亡に関わるような戦争に加わる事はまずありそうにない。
米国はカナダとの境界線に近い東西両岸でいくつかの小島の帰属をめぐって意見が対立し、カリブ海や太平洋の島々でも対立があって、17カ所の領土問題を抱えていると言われる。
日本人に対し米国高官が「米国は小島のことで争っていない」といってたしなめたこともある。
テリトリー争いは猿でも蟻でもする生物の本能だから、当事国は熱中しがちだが、第三者は冷淡であるのが普通だ。中国とソ連、イランとイラクが川の中洲をめぐって争っていたのを他の国々は冷笑していた。
もし日本と中国が尖閣諸島で武力衝突した場合、米国は仲裁することで存在感を高めることになる可能性が高いだろう。停戦させる場合には双方の兵力の引き離しが第一の定石だから、まず日中双方の軍艦、巡視船を尖閣海域から退去させることになろう。
日本は尖閣諸島を実効支配してきたから、「公平」に双方を退去させれば不利になる。さらにその後も日中の関係は対立が続き、険悪な状況が長期化すれば、日本は第1の輸出先で2018年で輸出の輸出の19.5%を占める中国市場を失う結果となる。
だがこれも、米中戦争になって両国が共に疲弊し、日本が戦禍に見舞われるよりはまだマシだ。
日本では尖閣諸島めぐって米国が中国と戦うことを期待する声も少なくないが「尖閣戦争」が起きれば、それは日中、米中戦争の第一幕になる公算が高いことを計算に入れる必要がある。
日本は幸い、第二次世界大戦から75年、平和を謳歌できたから、戦争は滅多に起きないことのように感じ、現実的、具体的に考えられない人が政治家、官僚、自衛隊幹部にも多いが、「平和ボケのタカ派」は危険分子だ。この75年間は近隣国との紛争や海外派兵、内乱などの戦争に巻き込まれなかった国は少ない。戦争は簡単に起きやすいものだ。
もし日本と中国との戦争や米中戦争を起きればどんな経過をたどり、どのような形で終結になりそうか、をできるだけ考えれば2014年の安倍首相と習近平主席の合意文書はよくできている。
双方の国民感情に配慮して曖昧な表現ながら、問題を棚上げにして、協力関係を回復することを決めたのは両国の安全保障、経済に取り有益で、経済関係は順調に拡大した。
だがその後、海上保安庁も中国の海警当局も巡視船を増強し競争は激化した。安倍首相の後継者は米国の中国敵視政策のお先棒を担ぐことを避け、安倍政権の合意文書を再確認し、日中相互の連絡をさらに密にして互いに巡視船に相手側の乗員を招くなど、和解を図る方が得策と考える。
尖閣戦争は日中全面戦争に発展する |
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【軍事の展望台】タカ派のようで、日中関係の改善に努めた安倍氏
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田岡 俊次(軍事評論家、元朝日新聞編集委員)
1941年、京都市生まれ。64年早稲田大学政経学部卒、朝日新聞社入社。68年から防衛庁担当、米ジョージタウン大戦略国際問題研究所主任研究員、同大学講師、編集委員(防衛担当)、ストックホルム国際平和問題研究所客員研究員、AERA副編集長、筑波大学客員教授などを歴任。82年新聞協会賞受賞。『Superpowers at Sea』(オクスフォード大・出版局)、『日本を囲む軍事力の構図』(中経出版)、『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(朝日新聞)など著書多数。
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